ウオロェデョイ埠頭

lo vrici selciska be la .xopukas.

mabla増し増しチョモランマ

⚠️ この文章には怪文書,空想,ウオロェデョイが含まれます。

 

 右手には硬めの紙のようなものが握られていた。それに視線を落として確かめるのがあまりに面倒だったから,指でそれの輪郭を確かめた。名刺より小さい,おそらく長方形の何かだ。

 それは交通機関を利用するためのものとか,或いは料理を提供されるためのものとかだろうか,と思った。或いは他の何かかもしれない。

 辺りには濃い霧が広がって,遠くの崖の黒も空の白も混ざり合って中和されている。どこにも境界線がない感じが好きだ。私はそれを典型的なペイントソフトのエアブラシツールで再現することが可能かを考えはじめた。

 初心者向けのデジタルイラスト講座で「エアブラシツールを使うな」と言っている講師があったのを思い出した。1つのツールの使用を全否定するとはなかなかラディカルだ。しかしエアブラシを使うなと言いたい気持ちは分かる。要は,あのようなɅ型の分布で塗られた形は自然界にあまり存在しないから,あれを使うと大抵は下手に見えてしまうのだ。経験的に――あるいは脳内の3Dレンダラー的に――エアブラシの中心が塗られる面の外部にある場合などを除いて,エアブラシを使うべきではない。多分。光学的な論証はまだできないしする気がない。

 まで考えたところで,何か私ではない意図に不意に接続された。意図が,私のすぐ左横に座礁――音も字も似ていたから間違えたけど,これは本来言いたかった単語より的確な気がする――座標,を得て,意図さんとなって私に干渉してきた。

 戸惑って固まっていると,意図さんは催促するように何かの台詞を唱えた。よく聞き取れなかったが何かの物理的オブジェクトを求めているようだ。現在の私が譲渡可能なのは右手にある硬めの紙だけだったのでとりあえずそれを差し出した。それを受け取ってまた早口で何か言ってきた。相変わらず何を言っているのかわからない。考える。口調から驚きや困惑の色は見えなかったので私の先ほどの行動は正解だったのだろう。とすると,あの小さな紙だけでは情報が足りないから何かを問うているのだろうか,

――忍辱増し増し.iasai増し増しmabla増し増しチョモランマ。

 考える間もなく私は知らない音列を口に出した。意図さんは問い返してこない。私は無意識に正解のうちの1つを引き当ててしまった。困った。受理されてしまう。確定されてしまう。文脈も意味も知らないのに。責任を持てないのに。

 その知らない呪文を音韻ループから文字に起こして眺めて必死に考える。特に誰からも声をかけられなかったので1日ほど立ったまま考えてしまった。今になってようやく,それを知っているような遠い感覚にピントが合ってきた。その呪文は言わば,840回繰り返し私に向けて唱えられた呪詛の,短いハッシュだ。直感する。ファンシーな音列の糖衣が隠す,見えない割には存在しすぎなものの質感。鈍くて柔らかいが,凝縮されて腕の肉をやすやすと切るそれ,の質感。乾いて粉になった古い血を新しい血が包んで融かしている。私は腕からその血の連続体で過去と接続する。連続体のあちらこちらが発火して,存在しない言語でログを綴りはじめる。私以外の誰にも読めないのに。読んでも何にもならないのに。

 私の意思は抵抗を失って,その罅割れ,隙間から,連続体を成すものたちの熱運動やログや発火が押し寄せてきた。意味を失った情報の滝の音と,天球をホワイトノイズで塗りつぶしたような真っ白がある。

 統語がほぐされていくので正しそうな文を作るのも困難だが,その困難さはもはや私を本質的に障害しなかった。私が接続して通信している過去が 発火してログを綴っている という状態と,ログが 連続体の発火を利用して 私と通信している という状態,の間には――それどころか,過去なmablaから成る連続体が ログを接続によってチョモランマする発火的な私と 等しいという状態,などとの間にも――大した違いは無くなってしまったから。

 つまり私はもう何も考えなくていいのだ。

 さっきまでうるさいと思っていた滝の轟音も,すべてをかき消して包み込んでくれるから,たまらなく優しいものに思えた。なにより,この音は膨大な数の分子が完璧な物理法則に従って動くことで生じるけれど,物理学を何も知らない乱数発生器にさえ模倣できてしまう。やっぱり大した違いは無いのだ。考えなくていい。

 そう思うと急に眠くなってきた。私は接続されたまま眠ることにした。

 もしもまた目が覚めることがあればその前には既に何かがどうにかなっているだろう。楽譜に無い841回目をどう弾けばいいかを,きっと私は知っている。

 

 終

2024.2.4